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助けての形をどう受け止めたら良いのかを考えさせられました。

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てんち+プラスおひさまです。

先日、市の図書館へ本を借りるために出かけてきました。

日曜日ということもあり、子連れがいつもより多かったのです。

子供は小さい声で話すのがまだ、上手にコントロールができません。

こしょこしょ話をしているつもりでも、大人からすればいつもと変わらぬ音声量だったりします。

その日も未就学児くらいの男の子が、両親と会話をしながら絵本を選んでいました。

両親は「もう少し静かに話そうね。」と、静かに優しく言い聞かせていたのですが…。

「すみません!もう少し静かにしてください!静かにしてもらうと、僕がとても助かります!」

と、大きな声で親子に話しかける方がいらっしゃいました。

私は瞬時に、聴覚過敏のある方だなと勘付きましたが、親子はえ?っと驚きながらも、そして少し迷惑そうに振るまっていたのがとても見ていて苦しくなったんです。

聴覚過敏の確信も持てないし、障害があるのも確信が持てないけれど、自分の息子と重ね合わせ居た堪れなくなってしまいました。

親子は聴覚過敏や障害について、ほとんど知識もなくおそらく関わったことも少ない人たちだったでしょう…。

自分がとてもしんどくなってしまって大きな声で勇気を出して伝えた方も、必死で選んだ言葉だったのでしょう…。

でも、双方からはお互いに納得できた様子は見られませんでした。

聴覚過敏がしんどくて、(静かな場所にいたくて図書館にいたいのに、うるさいな…。しんどいな…。)と、思ったのだと思います。

親子は図書館でのマナーを学びながら本を選び、親子の時間を大切にしている時間だったと思います。

他人のことを0から100まで知る必要はなくて、障害があるのかもしれないと考えたり、どうすれば自分はこの人の力になれるだろうか?と考えたりすることは、普段から意識しなくてはいけないな…と、この出来事を見て考えさせられました。

昔は、余計なお世話を焼くのが普通な社会でしたね。

その、余計なお世話というのは、本当に余計なおせわだったのだろうか?と、思うのです。

余計なお世話があったから、皆が助け合えている社会だったのかもしれません。

助けてを伝える前に、助けて欲しそうだな…、助けてって言われていないけど、助けたらこの人が少し肩の荷が降りるのでは無いかな?

と、思いながら過ごしてきたから、“助けて!”の悲痛な叫びになる前に“助ける”ができていたのだと感じます。

現在の社会では、人を助けるどころか自分自身を大切になかなかできないことが多いです。

自分を大切にできる時間がとても少ない。

だから、人を助けようと思ったり「助けて!」と言われても、助ける余裕がなかったり…。

自分を大切にする自分を助ける方法もイマイチわかっていないのに、人を助けるってどうすればいいんだろう?

きっと感じていると思います。

だからこそ、助けて欲しかったのに…を教えてください。

どう助けて欲しかったかを教えてください。

あなたの、助けてほしい方法をてんち+プラスで伝えさせてください!

“助け方を知らない”を、“知ってるから助けたい”にみんなの考えを、ひっくり返したいと思っています。

てんち+プラス おひさま

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